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2006.10.01 Sun
ご意見をお聞かせください
私は以前より、とても疑問に感じていることがある。
今般は、その疑問を明らかにして皆様からのご意見を伺いたいと思う。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

私の疑問点は、ズバリ「かつて日本は朝鮮を植民地支配した」という表現である。
果たしてそれは、正しい表現だといえるのだろうか。
どうも釈然としない。奇妙な違和感を、私は払拭することが出来ずにいる。

調べてみると、学術領域では「植民地」という表現が一般的のようである。
ところが、どうやら一部の識者や一般の民間人の中には、私と同じように「植民地という表現は適切ではない」と考えている方もいるようだ。それを私は最近、書籍やネットを通じて、はじめて知った。

ちなみに、中学生になる娘の教科書にも、「植民地支配」という表現がまるで当然であるかのごとく使われている。

本来、「植民地」という言葉の意味は、「ある国(本土)からの移住者によって、新たに経済的に開発された土地。特に、新領土となって本国に従属する地域」である。
この言葉の意味だけで解釈した場合、当時(1910年)に交わされた「日韓併合条約」を、イコール「植民地支配」として結びつけるには、やはり無理があるように思う。

「親日派のための弁明」の著者である金完燮氏(韓国人)は、その著書の中でこう述べている。

>ヨーロッパ列強にとっての「植民地」が遠く離れたところにある農場を経営するようなものだったとするならば、日本にとって朝鮮と台湾の統治は、隣の店舗を買いとって店を拡張するような行為だったといえる。(中略)ある人がソウルに住みながら、遠く離れたオーストラリアやニュージーランドに農場を所有していたとしてみよう。その人は現地に一定の投資をして収益をあげることだけに関心をもつだろう。しかし、自分の住まいであり職場でもある商店を経営する貧しい商人が、苦労して隣の店を購入することになったら、その人は新しく手に入れた店を一生懸命改装し、すでにある店とあわせて相乗効果を得ようとするだろう。19世紀末に台湾を、20世紀初めに朝鮮を併合した日本の立場は、まさにこのクモンカゲ(街角にある食品、飲料、日用品などを売る小さな個人商店)の主人のようなものだった。(引用終わり)

無論、金氏は韓国人としての立場で意見を述べているため、多少の違和感はあるが、概ね私は、この意見に賛成である。
日韓併合条約締結後、大韓帝国は正式に「日本」になった。つまり朝鮮の人々も、民族の違いこそあれ「日本人」になったのである。
これと似たようなケースとして、私はアメリカによるハワイ併合を思い浮かべる。
果たしてハワイは、アメリカの植民地だといえるだろうか。

また、評論家の黄文雄氏は、雑誌「正論」の平成15年6月号で、こう述べている。

>「日韓併合」と言われるものの本質は、日本の朝鮮植民地化ではなく、日韓の合邦だった。国家財政破綻に直面した李朝にとり、残された生存の道は、二つしかなかった。清国の属国から朝鮮省に昇格し、大清帝国に編入されるか、あるいは日本と合邦するかだ。結果的には日韓合邦は最良の選択だったといえる。当時の列国もすべて賛成しただけでなく、半島と利害関係の深かったロシアや清国でさえ異議を申し立てていない。強国志向だった当時の近代国民国家としての「国のかたち」としては、「同君合邦国家」が時代の主流だった。オーストリア・ハンガリー、スウェーデン・ノルウエー、さらにチェコ・スロバキアなどがそうである。後のユーゴスラビアにしてもそうだった。ヨーロッパや中近東、ラテンアメリカにおける合邦国家の離合集散の事例を挙げれば枚挙に暇がない。このような同君合邦国家をすべて「植民地理論」で片付けるのは、歴史捏造というほかない。(引用終わり)

この意見にも、私は概ね賛成なのである。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

実は、本日の午前2時ころに一度エントリーして、わずか5時間ほどで公開を保留にした記事は、日本による大韓帝国の植民地支配(?)に関する話題である。
あの東京新聞が、紙面で「植民地支配! 植民地支配!」と騒いでいるので、発作的に頭に血が上り私は記事を書いたのだが、冷静になって考えてみて、自説が正しいかどうか100%の自身がもてなかった。

さて、皆様のご意見はいかがであろうか。

やはり、「植民地支配」という表現が正しい、とお考えですか?


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歴史教育考    Comment(28)   TrackBack(1)   Top↑

2006.09.04 Mon
日本の歴史教育に欠けているもの パート1
今日は、おしょうの「ぼやき」です。

私事ではありますが、私が歴史(日本史)に興味を持ちはじめたのは、実は大人になってからです。具体的に言えば、25を過ぎたころからでしょうか。
子どものころは歴史という教科など大っキライで、ただテストで良い点を取るためだけに、年号などを単語帳に書いて丸暗記していたという記憶しかありません。

私が歴史好きになったのは、尊敬する作家のひとりである「北方謙三氏」の著書「破軍の星」を読んだことがキッカケです。その歴史小説は、南北朝時代初期に生きた「北畠顕家」という若き公卿を主人公に描いた作品でしたが、もとより歴史ギライだった私は、予備知識がないために、読んでもまったく面白くありません。そこで一念発起して、図書館で「南北朝時代」の文献を読み漁るようになりました。だってそのころは、尊敬する作家の作品を理解しようと必死だったですから(笑)。

歴史というものは、学べば学ぶほど奥が深く、面白いものです。
なぜ、こんなに面白いものが、子どものころは大っキライだったのでしょう?
気づいてみれば、その答は簡単でした。学校で教える歴史は、ただ単なる「タイトルの羅列」で、まったくと言ってよいほど、内容のないものだからです。

歴史を学ぶということは、先人たちが残した「成功例」と「失敗例」を知ることに他なりません。つまり、「生きる知恵」を授かるためのものです。

では、今の子どもたちが、学校でどのような歴史を学んでいるのか、具体的に紐解いてみましょう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

資料1.「中学社会 歴史 未来をみつめて」(教育出版株式会社刊)

(以下引用)
表題【南北朝の内乱】
幕府がおとろえると、後醍醐天皇は、政治の実権を朝廷に取りもどそうとしたが、幕府は京都に大軍を送ってこの動きをおさえようとした。
有力な御家人の足利尊氏は、幕府に見切りをつけて、京都の六波羅探題を攻め、新田義貞も鎌倉を攻めたため、1333年、鎌倉幕府はほろんだ。
後醍醐天皇は、年号を建武と改め、天皇中心の政治を始めた。しかし、公家だけを重んじ、これまでのやり方を変えてしまうような政治は、しだいに人々の不満を生んだ。特に、戦いのほうびをあまりもらえず、不公平感をもっていた武士たちの反発が強かった。
足利尊氏が兵を起こし京都に別の天皇をたてると、後醍醐天皇は吉野にのがれ、その政治も2年あまりで終わった。
その後60年近くの間、全国の武士たちは、京都の北朝と吉野の南朝の有利な方について、領地を奪い合って戦った。これを南北朝の内乱という。
(以上、原文ママ)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

何じゃこりゃ! たったこれだけで、南北朝時代を説明したつもりなのでしょうか。
こんな無味乾燥で内容のまったくない教科書で学んで、中学生たちが「歴史好き」になるとは到底思えません。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

資料2.「市販本 新しい歴史教科書」(株式会社扶桑社刊)

(以下引用)
表題【鎌倉幕府の滅亡】
鎌倉幕府の支配がゆらぎ始めると、北条氏はいっそう権力を集中しようとして、かえって御家人の反発を強めた。
14世紀のはじめに即位した後醍醐天皇は、天皇親政(天皇みずからが政治を行うこと)による意欲的な政治を行うため、討幕の計画を進めた。初め計画がもれて二度も失敗し、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に移されるようなこともあった。しかし、後醍醐天皇の皇子の護良親王や河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを集結して、絶大な幕府の勢力とねばり強く戦った。
やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、それまで討幕勢力が不利だった形勢は一変する。幕府軍から御家人の脱落が続き、足利尊氏が幕府にそむいて、京都の六波羅探題をほろぼした。ついで新田義貞も朝廷方につき、大軍を率いて1333(元弘3)年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

表題【建武の新政】
後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇親政を目標として、院政や摂関、幕府をおさえ、新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年、年号を建武と改めたので、これを建武の新政という。武家政権がほろび、公家政権が復活したという見方からは、建武の中興とよぶ。
しかし、建武の新政は公家を重んじた急激な改革で、武家の実力をいかす仕組みがなかった。また、討幕をめぐる戦乱でうばわれた領地をもとの持ち主に返し、今後の土地所有権の変更はすべて後醍醐天皇自身の判断によらなければならないとしたが、はるかむかしに失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、その方針を後退せざるをえなかった。そのため、早くも政治への不満を多く生み出すことになった。
そのようなときに、足利尊氏が幕府を再興しようと兵を挙げたので、建武の新政はわずか2年余りで崩れてしまった。

表題【南北朝の動乱】
1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、幕府を京都に開くなど、武家政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。
吉野方を南朝、京都方を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国にわたる争いを続けた。この時代を南北朝時代という。
(以上、原文ママ)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

多少は「資料.1」よりも詳しく書かれておりますが、やはり、肝心な説明がなされていません。しかも、この「新しい歴史教科書」には明らかな誤記があります。それは、【建武の新政】の二行目の、「幕府をおさえ」という記述です。このころは、すでに鎌倉幕府が壊滅していたわけですから、のちに室町幕府が創建されるまで、「幕府不在」の時代です。存在しない幕府を、後醍醐天皇がおさえたという事実はありえません。

以前、このブログで私は「新しい歴史教科書」にも不備が目立つと指摘しましたが、具体的に言うと、こういう点です。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

南北朝時代とは、ひと言でいえば朝廷が南朝と北朝に分裂し、全国の武士や民を巻き込んで戦乱に明け暮れた時代です。
私が「ぼやく」理由は、なぜ朝廷が南朝と北朝に分裂したのか、その肝心な説明が、どちらの教科書にも欠落しているからです。

そもそも、南北朝時代が歴史に現れた背景には、大きな要素が3つあります。

まず第一は、鎌倉時代の主上のひとりであった後嵯峨帝が、はじめに位を譲った後深草帝のことをなぜか(諸説あります)「毛嫌い」し、偏愛していた亀山帝に無理やり譲位させたのが事の起こりです。このとき、朝廷は真っ二つに割れました。
後深草につく勢力と亀山につく勢力が双方いがみ合い、朝廷内部に抗争の火種ができたのです。

次に、この問題に、鎌倉幕府が首を突っ込んだことが挙げられます。幕府は、後深草と亀山の子孫が交代で帝位を継ぐという妥協案でどうか、と提案しました。それに双方が納得したため、以後はその妥協案通り帝位の交代が行われることになったのです。それを、両統迭立(りょうとうていりつ)といいます。
しばらくはそれでうまくいきました。後深草帝の子孫(持妙院統)と亀山帝の子孫(大覚寺統)が10年ごとに帝位を交代するという方法で、特に問題は起きなかったのです。
ところが、のちに大覚寺統から即位した後醍醐帝は、両統迭立の約束を守りませんでした。幕府ごときが帝位の交代に口を出すのはけしからん、と突っぱねたのです。そして時代の流れは、討幕へと傾いていったのです。

最後に、先に紹介したふたつの教科書とも、源氏の嫡流である足利尊氏が後醍醐帝と対立し、武力をもって幕府再興を目指したとき、「京都に新しい天皇を立て」と簡単に記述して済ませていますが、ここはかなり重要なポイントです。
足利尊氏が錦の御旗として担いだのは、持明院統の帝です。
京都の持明院統を北朝とし、吉野の大覚寺統を南朝とする日本史上はじめての、ふたつの朝廷が存立するという異常事態が発生したわけですから、曖昧な表記で「はしょって」はいけません。キチンと、そのときの北朝の主上は、「光明帝」だと表記しなければ片手落ちになるでしょう。なぜなら結果論として、現在に続く皇統は北朝の流れだからです。
足利尊氏は、北朝から任命されて征夷大将軍の座につき、幕府を再興しました。
でもなぜ南朝は、すぐに滅びなかったのでしょう。足利尊氏から都を追い出された南朝がすぐに滅びていれば、そもそも南北朝の動乱(内乱)など、起きることはなかったはずです。
それには大きな理由があります。
南朝は、三種の神器を持っていたのです。三種の神器とは、「八咫鏡(やたのかがみ)」という鏡と、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」という勾玉と、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」という剣のことで、皇位継承の証として古来より主上が受け継いできた宝のことです。
南朝の後醍醐帝は、北朝の光明帝に三種の神器を譲り渡してはいませんでした。
つまり、戦に敗れはしたものの、皇室の正当性においては南朝に分があったのです。
のちにこの三種の神器は、足利幕府三代将軍の妖怪「義満」が、南朝から騙し取って北朝に授けるまで南朝が持ち続けました。

私なりに、簡単な要約で済ませましたが、南北朝時代とは、この3つの要素を抜きには語れません。後嵯峨帝が自分の息子のひとりを偏愛したワガママと、後醍醐帝が両統迭立の約束を守らなかったワガママが、のちに約60年にも及ぶ戦乱の原因を作りました。

上に立つ人間は、理の通らないワガママで物事を決めてはいけません。それが、私が南北朝時代を学んで得た教訓です。
中学生たちにもこのように教えれば、歴史を学ぶ意義がわかると思うのですが…。

以上、おそまつさまでした。


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